2012年05月21日

静岡市の燈孔

蓋趣味を持ってからも度々訪れている静岡市。豊富な種類の色蓋を見て満足していました。ところが、このブログに度々登場するSergey Yanapongskiさんの「戦前期日本の燈孔設置状況」と題する研究ノートには静岡市にも燈孔があったとの記述。
これは、もう一度、丹念に歩いてみなければと思っていたらちょうど訪問の機会が訪れました。結論を先に書くと、それらしき蓋がありました。




Yanapongskiさんの研究ノートに貼られたリンクをたどって「日本水道史」(中島工学博士記念事業会 昭和2年発行)を読んでみると、大正13年3月の認可後に起工した第一期工事の区域はだいたい静岡城〜賤機山と阿部川に挟まれたJRの線路の北側のようです。
地図を見るとかなり整然とした区割り。どこから手を付けて良いのかわかりません。
もともとこういう区割りだったのか、最近区画整理されたのかも不明。

古い地図でもあれば良いのになと検索してみると、靜岡市詳細圖(昭和二年発行)という古地図を発見*。
基本的には、昭和初期からあまり変わっていないようです。
第一期工事の燈孔設置数は11個。いわゆる屈曲部に相当する箇所がもともと少なかったからかもと思い、古地図で道がうねっていているところを探したのですが、確かに少ない。しかも下の地図上赤丸のうねうね道は現在ありません。一方で青丸で囲った川筋は現在道路になっています。



Google mapの航空写真でその道路を見ると川筋の始まるところ付近に縁石付きの人孔蓋らしきものが写っています。


というわけで、その場所からスタート。やっぱり縁石付でした。ちょっと取って付けたような配置ですね。石がひとつだけ設置前に割れてしまったので、その分他の石の間隔を開けて並べたような。


結局、この暗渠っぽい通りには、それらしき蓋は見つかりませんでした。
ただ、付近には縁石付の蓋は結構ありました。


「日本水道史」によれば、人孔や燈孔の構造は名古屋市のものに準じたように記載されていますが、見つかった縁石付の蓋はいずれも東京市型でした。静岡市の東京市型蓋は、穴なしのものと4つ穴のものと22個すべて貫通しているタイプがありますが縁石付きの蓋はほとんどが写真のような全貫通タイプでした。これがオリジナルかもしれません。

石段の下の路地の蓋。


その後も、第一期工事の該当区域を歩き回ると相当数の縁石が。22穴の蓋だけ地表に出て縁石はアスファルトに埋められている状態のものを合わせると数十個はありました。第一期工事の人孔数は415個。縁石がすべて創設当時のものとは限りませんが、これだけ残っているところを見ると、戦後、それほど大規模な下水管の更新工事は実施されていないではないかと思われ、燈孔も残っている可能性があるのではと淡い期待を抱き、さらに調査。赤線部分とかもいい感じと思ったのですが、ふと何気なく青線の筋に入ってみると...


ありました。


地紋は見たことのないタイプですが細くて頼りない蝶番と直径約18p、名古屋市の燈孔蓋とよく似ています。
名古屋で見つけた2枚と同様縁石がないところは偶然? そう言えば、名古屋で見つけた一枚目もこの通りがくさいとにらんだ道の一本隣にありました。これは間違いなく偶然です。


古地図ではこの矢印のあたり。別に直線が長いわけでも屈曲しているわけでもないのけれど。。。ちなみ、赤丸で囲った細い道は現在はなくこの蓋のあった道から大通りにまっすぐ伸びる道に付け変わっています。ちょっと計画が変わっていればこの蓋も道路とともに消えていたかも。



この他、水道古蓋等、興味深い蓋をいくつか見つけましたが、それはまた後日。


*国際日本文化研究センター 所蔵地図データベース
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posted by 東京蓋散歩人 at 20:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 静岡マンホウォーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月13日

太田市独自(?)の水道蓋

群馬県太田市にはなかなか凝ったデザイン角小蓋があります。上州太田、泥吐弁の文字もいい。この蓋、制水弁や、消火栓もあります。



きれいに色づけされた蓋も。(分かる人には分かるようになにげにレア蓋を...)


とは言え、今回も目的は他にも。
太田市の水道ビジョンによると同市の水道事業開始は昭和14年。戦時中に事業許可が下りたのは軍需産業用でもあったためとか。その産業というのが「中島飛行機製作所」。
現在の↓↓↓。かつて飛行機、そして今、軽自動車も生産中止に。。。。


で、気になっているのがこの蓋。大きさは縁塊込みで約67.5x56cm。
他ではあまり見ないタイプです。(少なくとも私は見たことがない)。フォントといい左書きといいそれほど古いものではないのでしょうが、創設当時の蓋も同じような雰囲気だったのかなと推測して、オリジナル(?)探しに出かけました。紋章も当時は太田町。この蓋の太田市旧市章とは違うかも。


結論から言うと、残念ながらそれらしき蓋は見つかりませんでした。
制水弁以外に「空気弁」がありましたが、字体は新しい。今回は見かけませんでしたが、泥吐弁もあったはず。


まあそれでもそれなりの収穫。人孔室と制水弁。やはり三角蓋。人孔室は小さく見えますが55cm四方、人が入れないほど小さくはありません。


こっちの「人孔」は普通サイズ。


ちょっと向きがおかしいですが「流量調整弁室」


饒舌に幹線名を列記。「東長岡幹線」「「毛里田幹線」「仕切弁」
市章の色分け(赤・緑・青)に意味があるのかどうか...


太田市の下水道も紋章は↓↓のように市章を使っています。(これは旧市章)


ところが、汚水ますと思われる蓋だけ変な紋章が。旧市章にθが組み合わさったような...縦横が違っているかもしれませんがなんでしょうねこれ。


ちなみに新市章はコチラ



その他の蓋

「水取器」



「流量計室」青蓋


「流量計室」特大親子蓋 直径約150cm


T地紋の側溝蓋


これの右書きすら見つからなかった「量水器」


「バーバンク通り 制水弁」


はっきり明瞭に主張している「空気弁」





posted by 東京蓋散歩人 at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 栃木マンホウォーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

京都で時間探索

京都駅の近くで以前見つけた燈孔っぽいこの蓋(↓↓)。国際日本文化センター古地図データベースを使って、昔、川でも流れていなかったかなと調べてみることにした。


場所は矢印のあたり。


明治44年の地図を見ると上の図の矢印の右側の川がもっと左(西)側を流れていたことが分かります。


大正2年の地図。上の地図と基本的に同じ。最も、発行年=測量年ではないので大正時代の地図といえども明治期の測量結果に基づいる可能性もおおいにありますが。


大正13年の地図でも西側を流れています。若干、蛇行が変わっていますが。


一方、昭和4年の地図では、昔の流れが細く、現在の流れが太く描かれています。大正末から昭和初期にかけて川の付け変えが行われたようですね。


もう一度現在の地図を見ると昔の流れの跡が道路になっていました。(緑色部分)
暗渠になっていて古蓋が上に乗っていることがあるパターンですね。


結局、燈孔の場所に関する情報は得られませんでしたが、川の付け替えの証拠みたいなものを見ることができました。ちょっとしたブラタモリ気分。

ついでに発見したのが「駅」の表記の変遷。
明治9年「ステーシヨー」ただし、駅舎が完成し鉄道が開業したのは明治10年らしい。


明治18年「ステンシヨン」


明治22年「京都乗車場」


明治42年「京都停車場」


大正2年「京都停車場」


大正13年「京都驛」ようやく駅になりました。


昭和4年「きやうと驛」ひらがなにするとまだきょうとではないんですね。



ちなみにこちらの蓋があった「武者小路」は大昔から存在していた通りのようです。


「むしやのこうち」 元禄九年京都大絵より (元禄九年は1696年)


古地図散歩、眠れない日が続きそうです。


posted by 東京蓋散歩人 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都マンホウォーク | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする